◎ 神心(神ながらな心)の生き方。 黙って受けて黙って与える。。 六十五節は金光教の独壇場。。 馬鹿と阿呆で道を開け。。
昭和四十四年六月八日 朝の御理解
X御理解第六十五節「日柄方位は見るにおよばぬ。普請作事は、使い勝手のよいのが、よ い家相じゃ。よい日柄というは、空に雲のない、ほんぞらぬくい、自分に都合の よい日がよい日柄じゃ。いかに暦を見て天赦日じゃと言うても、雨風が強うては、 今日は不祥のお天気じゃと言うではないか。日のお照らしなさる日に良い悪いは ないと思え。」
お道の信心の素晴らしいというか、ず抜けておるというか、それをそのものずばりで御理解下さってますねえ。日柄方位は見るに及ばぬと、そういう例えば人間がでっちあげたもの、人間の知恵で出来たもの、そういういうなら迷信脱皮を教えて下さってある。日柄方位は見るに及ばぬとは、どういうようなことであろうか。例えば、教祖は百年も前にこういうことを教えておられるが、現在でもやはり、日柄方位を見て、窮屈な生活をしとる人がたくさんある。信心なんて迷信だという人達が、やれ結婚式だ、さあ今日は棟上げだという時にはやはり、よい日柄を選ぼうとする。そういう不自由な窮屈な生活を当たり前のようにしておる。本当におかしなこと。文化人と言われ、信心を迷信呼ばわりする人達が、そうであるようにです、この日柄方位ということは、いわゆる人間がでっちあげたことですから、人間心ということでしょうが。ここでは人間心は使うには及ばんと頂いていいと思うのです。
ところがここに人間心を使わんということが実は難しい。使わんで済む為に、お互い信心させて頂いておるというても良いくらい。信心がない間はどうしても人間心を使います。自分自身が自分で心配を作ります。自分で先の先まで取り越し苦労を致します。それが人間心。もうすべてがそうです。そこで、ここで私が思いますことは、簡単にそう人間心は使いなさんなと、神ながらでいけと、簡単にいうけれども、神ながらということが信心がなからなければ、本当の事が分かってこなければ、やはり使うのは人間心なんです。それではね、私共が例えば日柄方位といった迷信的なものに縛られてしまう窮屈な生活しかないように、やはり生活が窮屈になってまいります。生活が窮屈だということは、いわゆる難儀が多うなってくるということです。そこでここんところを二代金光様は福岡の初代に馬鹿と阿呆で道を開けと教えておられます。本当にそういうようなことに気をとらわれない、気を使わない。ところがやはり、信心が出来ませんとなかなか難しいことなんです。さあ、ここはいっちょ本気で馬鹿と阿呆にならして頂かにゃという時になかなか馬鹿と阿呆になれません。いうなら、いよいよという時には、やはり日柄方位を見るような愚を繰り返す訳ですね。
昨夜ある方が夫婦でお参りしてみえて、自分の持っておる田の横に自動車を洗うお店のようなものが出来た訳なのです。そこでは重油をたくさん使うものですから、その重油が自分の持ち田に流れ込んでしまう訳です。ですから稲を植えましても全然繁殖をしない。昨年からも五俵減収しておる。そこで、お店の人に掛け合いますけれども、相手が若い人で、昨年は損害の賠償金として三万円ほど下さった。ところが、今年はもう全然ノータッチ。知らんというわけなんです。それで、まあー出るところへ出て、色々調べてみますとです、家庭裁判にかけるより他に手はなかろう、ということであった。皆さんはそこんところをどういうふうに思われますか。私はね、日柄方位は見るに及ばぬということ。いわば、人間心を使うなということ。もっともっと大きな神様を相手の私共であらねばいけないということ。
ところがその神ながらというのは、人間心は使わんで済むということは大変に難しいことなんです。結局、私共はそこにせいぜい義理人情が出て来たり、又は、道徳的な考え方を以てしか、そこんところを当たっていこうとしない。私はお道の信心がず抜けておる、この六十五節はその端的に現れておる御理解だと思います。お道の信心がどのくらいず抜けておるかということ、底が抜けておるくらいにず抜けておるかということがこの六十五節で感じられます。人間が作ったものなんか、もう相手にするなと、日のお照らしなさる日に良い日悪い日はないと思えと、最後に結んであります。日のお照らしなさらん日が一日だってあるでしょうか。もう馬鹿ほどにず抜けた表現だと思います。ですからそういう中にあってです、そういうず抜けた心を使わしてもらうということが、日柄方位は見るに及ばんということであろう。人間心を使わないということである。ところが、その人間心を使わないということは難しい。それはよく申します。自分に都合のよかごたる時だけは、神ながら神ながらと。自分の不注意で忘れ物をしとったのを、それは神ながら神ながらというような自分に都合のよいということではない。
ここに使い勝手のよいのが良い家相じゃというておられるのをですね、これは自分本位、我が身勝手と頂いちゃいけんところです。いかに使い勝手が良いからといったてですよ、他人の人が迷惑をするようなことじゃいけないでしょうが。
久留米の教会が御建築になりました時に、ちょうど門から入って右手のところにお便所が出来ておりました。あれは今の奥城のある知覚に出来たんだそうです。ところがですね、それはなるほど、自分方の屋敷に建ててるんですから、誰も文句はないんですけれどもね、出来上がってみたところが隣のちょうど縁先に当たるところであった。それ石橋先生が、これはいかんばい、これは作り直せ、いくらなんでもよそのお屋敷のお縁があるその先に、他所の便所があるなんて、こんな不愉快なことはなかろう。これは作り直せ、せっかく作ったものをと言うたけれども、どうしても作り直された。
もう何十年も前のことだったでしょうか。放火魔が神社仏閣に放火しまわった事があった。そのときなんかも、やはり、大きい建物ですから櫛原の教会も狙われたのです。床の下にたくさんのたきつけのようなものを入れてから、油をかける。それにもう火をつけてあった。それを一番に見付けたのが、その隣のお縁から見た隣の人であった。さあ、大変金光様が火事になると言うてから、知らせてもらって、いわゆる火事になる寸前におかげを頂いた。
どうでしょう。もうせっかく建てたんじゃから、自分方の家屋敷じゃから、使い勝手の良いのが、そういうことではないことが分かりますね。それがです、あの時分に何万円かかったかもしれないが、あんな立派なものが灰になってしまうところが、灰にならんで済むようなおかげ。とてもとても便所を移動するくらいのこつじゃなかですねえ。それが何年後、何十年後にそういうふうに表れて来る。というようにですね、そんなら日柄方位を見るに及ばんということは、人間心を使わんということだけれども、そんなら自分本位で自分の都合の良いようにすることではないことが分かる。
そんなら人間心は使うに及ばんというのですから、そんならどういうことになるかというと、いわゆる、神心になれよ、ということなんです。神心になるから、日柄もいらなければ方位もいらん。人間なら、やはり日柄方位もいる。やはり学問のうえでんちゃんとその日柄方位といったようなものがあるんですからねえ。信心するからいらないのです。やはり信心せんなら、黄道吉日を選ぶ。しかもそういう迷信的なことをするということは、実を言うたら、天地に対する大変な御無礼になることなんです。その御無礼を敢えてする訳です。まともからその受けていこうとしない。それを私は人間心を使わんで済むということは、神心を使うていく生活になれよということ。
そこでそんなら私が夕べお取次させて頂いた田の問題。隣に重油をたくさん使われるお店のようなのが出来た。それが自分の田にどんどん流れ込んできた。しかも自分方は保障しきらんという。しかも年間五俵もの減収だという。お百姓さんとしては痛手である。だからここんところをどうしたらよかろうかということになる。それでそこのところを人間的に一応考えるなら、やはり、裁判にでもかけなければならない。それとも中に人を立てて交渉してもらうよりほかに方法もない。こういうところがですね、成る程それは、それは辛抱しときなさいと。簡単には言えないのですね。年に五俵ずつも少うなるのですから。まあ、辛抱しときなさいだけではいかんのです。そこで日ごろの信心をもう一遍頂き直さなければいけないということなんです。いうなら、馬鹿と阿呆という信心はどういう信心か、もう一遍考えなければいけん。最近私が言うておる黙って受けて黙って与えるという信心は、この場合どのように頂くかということなんです。だから、私の信心に接近して来ておるなら、それは今こそ、黙って受けて黙って与えていく以外にないじゃないかというんですけれども、何とかそこに道をつけて頂こうとして、そこにお参りして来てあるんですからね。何とか道をつけてというのは、自分方にも損にならないようにというてお願いしござるとじゃからね。それけんというてそんなら、相場で買うてくれていうたって、もう向こうではこうして役に立たんごといいよるけんで、向こうもつけこんでから安か相場でなら買おうという態度らしいんです。時価相場で買うといや、もうそこは作らじゃったもんと思うて、売ってもいいのだけれども、もうそうして田も出来んのだから、安うしか買わんという。やっぱりここに裁判でもするより他に手はないというけれども、それでは日柄方位を見るのと同じようなことになるのです。
例えば、そんなら根本的なところに触れていくというか、いわばたたかれておるけれどもです、たたかれておるということはたたかれなければならない元をひとつ考えなければいけん。そこに信心の深さといったようなものが出来てくるのです。そういう例えば日常生活の中に簡単なようでありますけれどもね。もう金光様の信心しよるけんで日柄方位は見らんと。自分の使い勝手の良いのが良い家相とおっしゃるから、自分の使い勝手よう建てると。それだけなんですけれども、実際、その時その問題になるとです、そう簡単には言えないことがたくさんあるということです。だから実際問題の時です、いよいよ信心が生きてこなかったら値打ちはないでしょうが。本当にこの神ながらな生き方というのは本当に有り難いことは有り難いですもんね。例えていうなら、私共は時計というものははめたことがないですから、汽車に乗ろうが、バスに乗ろうが時間を見て立ったことがない。それでタイミングようおかげ頂いたら、本当に時計持ってる人達が、とても味わえない味わいというものを、時間を見てきちっと来たからきちっとして乗り合わせた、それだけのこと。神ながらでやらして頂くと、成る程神様のお働きの間違いのないのに恐れ入ってしまう。というて有り難くなれ、そして、今度は今行ったという時に行ったとしますか。そういう時には猛反省する。どこのにきが間違うとったじゃろうか。どこのにきが狂うとったじゃろうかと。いわば待たせて頂いておる間に自分という者を見極めると、成る程そこにはそういう、いわば狂うてくる元がある訳なのです。例えば昨日なんかも、吉井から私共の親戚がやって参りましたが、もう実に神ながらな、見えられて帰られるまで神ながらとは、こういうようなものかと、万事万端の御都合お繰り合わせを頂いて、おかげを頂いているんですよね。もう例えていうなら、お食事のお采ひとつに至るまで、このおじいちゃんの為に用意されとったんじゃなかろうかというようにおかげ頂いとる。前の日にあゆの白焼きを頂いておった。私に出してくれたけれども、どうも食べようごとなかったのです。それを家内も折りに詰めたままであったのを直してから忘れとった。それがそのおじいちゃんが、これがいっちょあったらもうなあんもいらんというごと好きなんです。
というようにですね、まあ帰られる時でもそうです。ここまで送って来ましたら、ちょうど、むつやの佐恵子さんがお参りして来ておった。私共の娘の仮縫いかなんかで、連れて行かにゃならんというので、迎えに来てくれておったところへ、ちょうどここへ出てきましたから、吉井までですから送って頂いた。というようにですね、おかげ頂いてもう、神ながら働きをそのまま受けておるということなんです。だから、神ながらということは、そのように有り難いことですけれども、神ながらというのは私共が本当に神ながら、いわゆる神様がお使いになるというような心を日ごろ使う稽古をしておかなければ神ながらは生まれてこないということ。信心も出来な神ながらという訳にはいけないということ。日柄方位を見るに及ばんということを人間心を使うことには及ばん。いわば人間心を使わんで済むおかげ、済む信心を頂かなければいけないということ。
そして、私共がもう分かりきっていることです。例えば黙って受けて黙って与えていくという信心。「馬鹿と阿呆で道を開け」とおっしゃるから、もう私が馬鹿になっときゃええと、馬鹿になれる時には馬鹿にも阿呆にもなってるけれども、いよいよ自分の問題になる時には、右にしようか左にしようかとお伺いせんならんようなことになって、そのお伺いをされてもです、自分の都合のいいような返事を頂く為にお伺いするといったようなことでは返事のしようがないということ。
それはもう一遍、交渉してみてでなかったら、裁判のことでも研究してみて、そこんところをお繰り合わせを頂いていく以外にないねという、そっちの方しか言えんのです。さあ、ここでこそ馬鹿と阿呆になる時じゃなかかのと言うてです、石橋先生じゃないけれどもわざわざ出来ておるものをです、いわば自分方の屋敷に建てとるとじゃからもういいようなものですけれども、そこに石橋先生の神心が神ながらにそれを移動させなさった。さあ、それから何年後であったか知らんけれども、ああいう大火になろうごたるところをそこのおかげで食い止めて折られる。もうとても便所どん横さへやった位のこつじゃなかとです。いうなら重油どん流されて五俵ずつどん損した位のこつじゃなかとです。その向こうにあるおかげというのは。けれどもそれはそん時に馬鹿と阿呆にならなければならない方の側がです、いかに神ながらな心が使えれるようになっとかなければならないかということなんです。泣く泣く辛抱しとかにゃんということじゃないのです。こげん歯痒い事はないけれども、信心しとるけんでぐうぐう言うて堪えとるということじゃいけないということ。そこにはです、もう私共でいうなら、無計算とでも申しましょうか例えば、そんならそこで一万円二万円損のいったということじゃあないようなおかげがその向こうには、いわば広々とした自由なおかげがある訳なんですけれども・・・。 日柄方位は見らないということになれば、広々とした生活が出来るでしょうが、なんにもこだわらない、いつもが良い日なのです。というような頂き方。それに一月のうち何日と何日しか良い日はなか、というようなことではです、もうこげな窮屈なことはないように、だから窮屈なおかげしか頂かれんことになってくる。自由無垢、無限大、無尽蔵ともいう、そういう無限大のおかげにつながるということはです、そういう時こそ、無限大なおかげにつながられる時なんです。そういう実例をです、椛目から合楽にかけてのここ二十年間の信心に、そういう実例はもう本当に枚挙に暇がないほどであります。それがそのたびにおかげを受けてきておるという事実があるでしょう。だからそういう時にそれを生かせれる信心をね、日ごろ頂いておらねばいけんということ。六十五節というのはここのところはです、これはいうなら金光教の独壇場。独壇場というても本当に他の宗旨宗教とはずば抜けておるという、馬鹿ほどにそこが抜けておるような教えです、これは・・・。
これに例えば、日柄方位は見るに及ばんとか、そういう私共から見れば迷信といったようなことをです、いうなら教えの中に平気で取り入れてある宗教がたくさんあるということなんだ。例えば生臭けは食べちゃいかんとか、酒は飲んではいかんとか、世界の大宗教である仏教、キリスト教がそういう世間狭い事をいいよるでしょうが。それから考えたってです、金光教の信心がどの程にいわば、成る程世界の名教であるという訳が分かります。けれどもです、それを例えばですね、酒は飲んじゃいけんとか、生臭けを食べちゃいかん。そんならそれをどげん生臭けを食べたっちゃよか。どげん殺生なことをしてもよいというふうなことではなくて、こちらが大きな大きな意味合いにおいての神心。魚一匹食べるでもです、殺して食べるというとなんだけれども、人間命の為に食物として神様が与えて下さってあるんだというような、いわゆる神心を以てするところにです、その実が成仏する。その魚も生きて来るというような頂き方がある訳なんです。例えば日柄方位でも全然ないということはないかもしれん。有るからこそやはりみんなが祖のことの学問ですらがあるくらいなんですから。けれども私共がもういっちょ大きな神心。人間心の向こうにある神心。見るに及ばんという心。いわゆる神ながらな心が使えれるようになる時にです。自由自在の頂き方が出来て何にもひっかからない、何にもこだわる事のいらない、いわば自由な生活の出来れる場がそこにあるということなんです。
そういうことを六十五節には教えて頂いてあると思います。特にその日柄方位は見るに及ばんということは、人間心を使わなければならない程に、まあだ信心が幼稚であることを分らにゃいけませんですね。 どう